自身がこうでありたい。
という理想、目標があります。
そうなるために毎日何をするべきか
自然と頭のなかで、いくつか行動すべきことが浮かび
毎日それを実行しています。
実行することは些細なことの積み重ねです。
私のなりたい自分
ありがとう、の一言を必ず言う
子供との一緒にいる時間が少なくとも、必ずスキンシップを図る
食事は一汁三菜、まごはやさしい、旬の食材を食べるようを心がける
好きな野菜を育てる
歌う時には必ず踊る
キャップの似合う人になる
⚪⚪ちゃんのママ、おもしろい、と言われる人になる
人と人が出会える場を作る人になる
すごい真剣に書き出したのですが…(笑)
人様から見ると、何それ?みたいなのばかりですね(笑)
でもこれが私らしくいられるのです。
このなりたい自分になるために、やることがさらに細分化されます。
どうしたらそうなるのかを考え続けたりします。
例えば…歌うときには必ず踊る
これをするためには、体力もいれば、持久力もいるし、ダンスも踊れないといけない…そのために少々のランニングと月1のヨガを実行しています。
体を整えることは、とても大事だし必要なことだと思います。
これが細分化した行動の一部です。
目標がぶれなければ、そなるために何をしたら良いかということを自然と頭のなかで考え行動していますが、目標がないとなんとなく毎日をすごし、なんとなくな自分になっていたりします。
なんとなくな人生は送りたくないと強く思います。
父SADAOが亡くなって2年4ヶ月、ふと頭に浮かぶのは、SADAOが最期ベットに座っていた姿。
たった1週間だけベットにいて亡くなりました。
その直前までは庭仕事をしていて、まさかまさか亡くなるなんて思いもしませんでした。
SADAOの強さを感じました。
その頃はまだ東京に住んでいて、入院したことをきき、帰省し、兄、ゆうりん(姉)、FUMIKO、私と交代で看病をしていました。
偶然か必然か、FUMIKOと私が一緒にいるときにSADAOの最期を看とることになり、だからか余計に強く感じるのかもしれません。
人は必ず死ぬのだと。
SADAOは家族や周りから見れば好き放題やっているように感じました。破天荒な人間でした。
それでも最期ベットの上で、まだまだやりたいことかあるから退院するんだと言っていました。やり残したことがあり悔しいように感じました。
SADAOの最期をみてからです。
なりたい自分になり、人生を楽しもう!と思ったのは。
最期のときに悔しい念ではなく感謝の念を伝えられたらいいなと思います。
目標は先にあげた通りです。
定義は、欲でもその欲は自己中心的ではなく、周りの人のためになる欲であり、楽しむの楽は、だらける楽であってはならない、というところです。
そんな人生を歩むために毎日、何をやるべきかを実行しています。
まとまってない文章ですが、長くなり読んでくださった方、ありがとうございます。
こんな文章を綴るのも、今朝またふとSADAOの姿を思い出したからですね、きっと。
今日もなりたい自分をイメージし続けます。